冨重 貞
さん(1回生/商学部卒)

 1964年(昭和39年)の初夏。僕らはよく大隈候の銅像裏に集まって、自分たちで新しいサークルを立ち上げようと話し合っていた。大隈講堂を見通すこの懐かしい場所は、今もほとんど変わらないね。ある意味、ここが早稲田大学なべの会の原点かもしれないな。
そもそも僕らは、何か自分たちで自由にできる活動がやりたかった。誰かのお仕着せではなくて、自分たちの手で楽しめることをゼロから作り出したかったんだと思う。
だから卒業した後、自分たちが作ったサークルが40年以上も続くなんて、その当時は思いもしなかった。驚きとしか言いようがないですね(笑)



■日本初、学生野草調理サークルが誕生するまで 
 僕と澤谷(現早稲田大学なべの会OB会会長、二代・三代幹事長)は、早稲田大学入学後、ある合唱団に入りました。だけど、これがとんだ食わせ物のサークルでね。“看板に偽りあり”みたいな(笑)活動の実態は合唱団というの名の政治サークル、ある政党の下部組織のようなものだった。当時は学生運動真っ只中。たとえば町工場とかを回ってインターナショナル等の労働歌を皆で歌ったりしてました。そのうち「ふざけるな」って思いが募ってきた。それで、同じように気に入らないと考えてる1年生が集まって、「退部しよう」となったわけ。その中心になったのは僕だから、合唱団を辞めた後、どうするかということも、必然的に僕が考えなければならなかった。具体的に何か自分たちで(サークルのようなものを)始めようと話し合いだしたのは、6月ぐらいだったと思う。それがこの大隈候の銅像裏なんです。
 でも、その「何か」がなかなか決まらなかった。僕は料理が得意で、澤谷は松平(現OB会副会長)と一緒に佐倉高校時代、山岳部を創設したような男だから、山が好きだった。集まったメンバーの得意分野から、手っ取り早く何か見つけられないかと考えていた。9月から活動を開始すると、それだけは宣言してしまったので、夏休みに入っても決まらなくて、かなり困っていた。そろそろ決めなきゃいかんと思って、千葉県佐倉の澤谷の自宅まで打ち合わせに行ったんだ。その時、澤谷は留守で会えなかったんだが、佐倉までの行き帰りの電車の車窓から葛だか何か覚えてないが、緑がいっぱい見えてね。そこでふと、「じゃあ、自然の中へ出掛けて行って、草でも食べるか」って思いついた。それが早稲田大学なべの会のスタートなんです。最初から野草調理が目的だったのじゃなく、サークルを立ち上げる手段として、野草調理を中心にしたということだったんです。
 そもそも僕らは、何か自分たちで自由にできる活動がやりたかった。誰かのお仕着せではなくて、自分たちの手で楽しめることをゼロから作り出したかったんだと思う。だから卒業した後、自分たちが作ったサークルが40年以上も続くなんて、その当時は思いもしなかった。驚きとしか言いようがないですね(笑)
 大学卒業後、僕は商社に入社した。仕事柄、転勤が多かったんで東京にはほとんど戻れなかった。そんなこともあって、なべの会の仲間とも疎遠になりがちだったな。だから、なべの会がずっと続いていることを自分の目で確かめられたのは、創立25周年(?)のOB会だったのかな。それまで話には聞いていたけど、半信半疑だった。サークルができて20何年経って、びっくりするぐらい時代も変わって、それでもいまだに大学生が草を食べてるなんて、自分の目で確かめないと信じられないじゃない。作った本人がそんなこと言っちゃいけないかもしれないけど(笑)。

■なべの会は現役会員のモノ・・・
 今回、現在の部室を見せてもらったり、OBの小林さん(28回生)が経営するバーで、OBの諸君や現役幹事長の浦山君と酒を酌み交わして思ったのは、隔世の感はありつつも、同時に、変わらない何かがあるということだね。
自分たちが立ち上げたなべの会と、現在のなべの会が確かに繋がっていると感じられたことは、正直なところ、とてもうれしかった。今、僕は熊本に住んでいて、なかなか東京にも出てこられないんだけど、また、なべの会に関わってみたくなりましたね。
 ただ、創設メンバーの一人として、現役の諸君に一言、言っておきたい事がある。それは、今のなべの会は君たちのものなんだ、ということ。僕も含めて、OB会員たちが「なべの会っていうのは…」みたいなことを言ったとしても、君たちはそれに唯々諾々と従うことはない。僕らが「自分たちが楽しむために」なべの会を作ったように、今の君たちも、自分たちが楽しめるスタイルでサークル活動をやるべきだ。例えば、なべの会が今までとはまったく違う方向に進んで行ってもいい、伝統が絶対じゃないよ。せっかくOB会が盛り上がってきているのに水を差すような言葉かもしれないけど、僕個人としてはそう思うんだ。その上で、なべの会が続いていき、様々な世代のなべの会の仲間たちと酒が飲めたら、それはもう最高だな。

■丸山先生との出会い
 せっかくだから、丸山先生との出会いの話もしようか。そのうちどなたかが「なべの会正史」を作ってくれるでしょうから、ここではごく簡単に・・。
 野草を食べると決めたのはいいけれど、当時のメンバーには、誰も野草の知識などなかった。「みんなでわいわい楽しくやれれば、それでいいじゃないか」という意見も一部にはあったんだけど、僕はいやだった。芯の無い活動なんて、絶対に長続きしないと思っていたから。それで、野草調理に造詣の深い先生を手当たり次第に探して、顧問になってくれるようお願いしに行った。
 当時、山菜料理の本などを出していた料理研究家や植物学の先生に直接会いに行き、顧問就任をお願いしたりしたのだけど、なかなか難しくてね。誰も引き受けてくれない。ただ、お願いに上がった中の一人、辺見金三郎氏が「変人だけど、おもしろい人が上野の国立科学博物館にいるから、是非、訪ねてみれば」と教えてくれたんだ。辺見さんはその方と紹介状を書いてくれるほど親しい間柄ではなかったので、僕らは紹介状もなし、アポイントもなしに、その方の勤務先、上野の国立科学博物館をいきなり訪ねたわけ。それが丸山先生。
受付で待つ事しばらく。文部省の技官の先生だと聞いていたからこっちも構えていたんだけど、出てきた“先生”は長靴に作業服で先生と言うより庭師のオッサンって感じだったな、今思うと。丸山先生はなべの会の活動の時と全く同じような格好で博物館に勤めていたんだね。
 丸山先生にしてみれば、どこのウマの骨とも分からない学生がいきなり押しかけてきて、野草調理をやるサークルを作ったから顧問になってくれと言う。「なんだ、こいつらは?」という感じだったろうけど、とにかく話は聞いてくれて。その時は、たぶん軟弱な学生のお遊びだと思っただろうから、「毎週の土曜か日曜に野草散策ハイクを主催しているから、本気ならまずそこへ来なさい」っていうことになった。
今思うと試されたわけですよ、丸山先生に。そこで他のメンバーと「行くしかない」と決めて、それからは交代でとにかく通った。それで11月に入ってからかな、丸山先生がようやく「君たちの熱意は分かった。一緒にやろう」って言ってくれたんです。嬉しかったな。そこで、すぐ大学当局にサークルの設立届けを出して、記念すべき第1回活動が12月の高尾山。真冬だからまともに食べられる野草なんて大して無かったはずだけど、あの人はそんなこと、全然関係ないからね(笑)がたがた震えながら野草調理をしたんじゃなかったかな。

 ちなみに、なべの会の名前だけど「なべ」には、3つの意味があります。一つは、野草を調理して食べる道具の象徴が「鍋」であったこと。2つ目に、中心メンバーの澤谷や松平が、高校時代の山岳部でよく訓練していたのが地元佐倉の「なべやま」で、山にも行くなべの会としてそこにちなんだこと。3つめに、初代幹事長が渡辺さんと言う女性であったこと。ほとんど辻褄合わせのようなものだけど、こうしたことからネーミングされたと言うのが真実です。
 ついでに言うと、初代幹事長を当時早稲田の聴講生だった渡辺さんにお願いしたのは、まだ早稲田の校内に女子学生が珍しかった頃だから。
なべの会は女性幹事長のサークル、ってのが学内にアピールできると思ってた。その後、僕は彼女と結婚し、二・三代幹事長の澤谷は卒業後、僕の妹と結婚しました。言ってみると彼は僕の義理の弟になってしまったんだな。

 さて、その翌年、昭和40年4月、サークルとして正式に活動を始めることになった。早稲田祭にもこの年から「道草亭」を出店している。当時の早稲田祭は展示や講演会、演劇、パフォーマンスのようなものが多くて、食べ物を出す模擬店自体、非常に珍しかった。それに野草調理という、ちょっとキワモノ的な存在感もあって、「道草亭」は大反響だった。当時は文学部のスロープの上に出店していましたが、昼時のピークにはスロープの下まで行列が出来ていた。儲かったね、その時は。でも、打ち上げで幹事が売り上げの大半を飲んじゃったんだ。バレて下級生から突き上げを食らって、僕が代表して平身低頭あやまりましたよ。翌年から、初代の連中は「道草亭」の会計担当に入れてもらえなかった(笑)。

 その時から、43年も続いてるんだね。つくづく信じられない思いです。でも、当時のメンバーだけでなく、若い後輩達と、当時と同じような気持ちで一緒に酒が飲める機会が持てるようになったのは紛れもない真実。なべの会を創って本当に良かったと、いまそう思っています。


メニューに戻る